【MtX】Xジェンダーである『私』の一人称の変遷




 

どの一人称も自分にとってしっくりこない。そのように悩んでいた時期も、私にはありました。

ですが、いまのところは『私』という一人称に落ち着いていて、特に違和感なく使いまくっています。

ふと「いろんな一人称を使っていたな~」と思い出したので、その変遷とともに、どのような葛藤があったか? をお話しできたらと思います。

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疑問もなく『うち』を使っていた小学校低学年

 

まず初めに、自然に選び取った一人称は『うち』でした。幼稚園ぐらいだったと思います。

女の子と遊ぶ機会がとても多かったため、必然的に話すのも女の子のほうが多く、自分のことを表す言葉=『うち』、みたいな学習をしたのではないか? と考えています。

男でありながら自分のことを『うち』と呼んでも、周りは特に対応を変えなかったので、なんの疑問もなく『うち』を使っていました。

 

ある日、祖母の家に行ったときのこと。

叔父が「おめぇ男なのに『うち』っていうのか?」と聞いてきました。

「うん!」

「そうなのか、最近の子はそういうもんなのかなぁ」と。

叔父の性格的にもからかう、というよりは純粋に不思議がって質問したんだと思います。

 

ただその質問がどうにも気になって。いわれてみると、学校の男子で『うち』といっているのは自分ぐらいでした。

「あれ、なんか自分って違うんだ」

たった一人称。言葉一つにも性差というものがあるんだ、と実感をともなって学んだというか。

男なら使っていい言葉、使っちゃいけない言葉がある。程度には考えていたと思います。

 

それがちょうど自分の性自認に対して、違和感を覚えはじめた時期と重なったのもあって、「自分はどの一人称を使ったらいいんだろう。使っていいんだろう」と悩むきっかけになりました。

 

一人称を使わずにゴリ押した小学校中学年

 

小学校中学年になるころには、男女での性差を意識しはじめるころだと思います。

もちろん一人称も男女ではっきりとわかれていて、男が女の使う一人称を、女が男の使う一人称で話している人はいませんでした。

 

私はというと相変わらずしっくりくる一人称を見つけられずにいたため、一人称を使わずに話す、という暴挙に出ていました。

だから話がこんがらがること。特に3人以上いるところで話すとき、自分の話の主語がいつも欠けていたせいで、うまく話せないことが何度もあって、長いあいだ複数人での会話が苦手でした。自業自得です。笑

 

実生活を営むにあたって障害があったとしても。それでも一人称を使うことには違和感がありました。

なんか「男だからって僕とか俺とか、そういう一人称を使ったら自分じゃなくなる」みたいな、強迫観念にも似たようなものを持っていたかもしれません。

もうこの時点で、自分の性別が男でも女でもないことが、アイデンティティーになっていたともいえますかね。

つまり一人称を名乗ることは、自分のアイデンティティーを揺るがす大事件だったのです。

 

客観的にいま書いている自分からしてみても、「たったそれだけのことをおおげさな」という思いをかすめています。笑

ならば周囲の人はなおさら、「何をこだわっているの?」と意味不明だったと思いますね。

というか、私の知る限りの人はすべて一人称を名乗っていたので、「この悩み自体、誰にも理解されないんだろうな」とうっすら悟ってもいました。

 

なので誰にも打ち明けることもなく、かといって自分の心も守りたいがために、必死に一人称から逃れようとしていました。

 

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『自分』を使いはじめた小学校高学年

 

さすがに話すことへの支障が出まくっていたので、妥協できる一人称を探しはじめました。

そこでぴったり来たのが『自分』。

性別関係なしに、自らのことを説明できる。こんな言葉があったなんて気付かなかった! と。

 

ただ周りをみても『自分』という一人称を使っていたのは私だけだったので、結構浮いていたのかなぁ。

「おまえって、よく自分っていってるよね」といわれることもしばしば。やっぱり目立っていたのだと思います。

 

私にとって目立つことは、あまり面白くないことでした。

高学年になるころには自分の性別に対しての違和感がはっきりしていて、それが露見したらいじめられるんじゃないか。なんとなくそう考えることが増えてきました。

ハブられてしまった人の末路を何度も見ていた、というかハブる行為が特別多かった学校だったのかも? だから余計に怖かったんですよね。

じゃあ『自分』を使わないほうがいい気がする。どうしようか。

 

しぶしぶ『俺』を使いはじめた中学生

 

いままで使い慣れた『自分』という一人称を捨てる。

その理由は目立たないため。要は周囲に擬態するためで、出る杭にならなければいじめられることもないだろうという判断のものでした。

ちょうど中学にあがって、一人称をどうしようかと。思い切って男性性に寄った一人称である『俺』を使うことにしました。

 

というのも『僕』を使うのはダサい、みたいな風潮が蔓延していたからです。

『僕』を使う男子に対しての、女子の陰口が凄かったのを聞いていたのもあって、なおさら『俺』しかないと思いました。

 

「俺」

 

たったそのひと言をいうために、相当の勇気を必要としました。

これまでの自分を否定するようなことでもあったし、『俺』なんていったこともないから、周りからどんな反応をされるんだろう、と思って。

実際には「あ、こんなもんか」って感じだったし、周りも無反応だったので取り越し苦労だったのですが。笑

 

アイデンティティーが傷つかないなら小学校の時点で『俺』を使っとけばよかったじゃん、といったらそれもまた違って。

それは結果論の話であって、『俺』をいうための覚悟が固まっていたからこそ大丈夫だったんじゃないかなと思っています。

一人称に対して悩んだ3,4年がないまま、『俺』を使うことを強制されていたら、ちょっと立ち直れなかった気がしますね。結局は自分で納得して、『俺』を使うことができた。そのプロセスが、過去の私にとっては重要だったなと考えています。

 

そのあと社会人になるまで『俺』との付き合いは続きました。

 

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『私』の使いやすさに開眼した社会人

 

社会人になると、ほぼ敬語を使う生活が主体になります。

主語は『私』がほとんどになるでしょうか。丁寧な印象があって、なにかと汎用性が高く便利なのです。

それに公私ともに年上の人と話す機会が増えるので、もう『私』しか使わなくなっちゃいました。

 

年齢関係なしに人として尊重したいという思いから、たとえ年下であっても『私』を使うようにしていることもありますかね。

ここらへんはポリシーの問題ではありますが。

 

もういまの自分にとって、『私』という言葉を使うことでどんな性別が表現されるか? はほぼ無関心に近いです。

・自分の性別が無性である、と自認しはじめたのが社会人になる直前だったこと

・「見られる自分≠本当の自分」でもいいじゃ~んと、思えるようになったこと

などなど、自分のなかでの心境の変化も多いに影響しています。

 

一人称にこだわらなくとも、自分らしく生きられる方法や考え方を身につけられた。

それが一番大きいのかな。

で、それらを身につけるためには、一人称で悩みまくった時間は多分必要だった。

その膨大な苦しんだ時間があったからこそ、より自然な、借り物ではない本心から、自分を受け入れられるようになっていっている。いまはその真っただ中で、自分を受け入れられるようになれたらなと思っています。

 

 

一人称で悩むのは苦しいことです。

なかなか理解されずらい問題でありながらも、本人にとっては切実な痛みを伴うからです。

それに傍からみると「所詮そんな問題」と軽視されやすく、単純な問題だと勘違いされがち。

 

そのときそのときで、どの一人称が一番しっくりくるのか。

しっかり向き合っていけば、苦しんだなりにストン、と腑に落ちる瞬間がきます。

私の一人称の遍歴も参考にしつつ、大いに悩んじゃってください。

 

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