私は新卒で入社してすぐ、とある新人研修を受けました。
数年前、その研修が原因でいろいろな物議を醸した研修でもあります。
痛ましい事件が起きて数年経った後だったからか、当時と比べて研修内容もマイルドになっているかもしれません。
ですが体験者として、当時感じたことを残しておこうと思います。
・・・決して同じ外部の会社が行っている研修を受けた、とは言っていませんからね。
前置きは以上です。
まずこの研修に対しての私の立場ですが、完全に否定的な立場です。
研修は「社会人としての意識を目覚めさせるため」という名目で行われました。
だったらもっと別のやり方があったのでは? と思うので。
おおまかな研修の流れは以下のとおりです。
・考えて物事を発言できないほど脳みそを疲れさせる
-研修生に緊張と弛緩を繰り返させて体力を奪う
-タスクを与えることで休む暇を消す
・自分の隠したい過去や恥を引きずり出し、過去や恥と決別させる
★社会人としての自覚を芽生えさせ、大人になってもらう
では実際にどんな研修で、どんな狙いがあったと考えたのか、どんな学びを得たのか、を以下のような流れで見ていきます。
・研修のルール、仕組み、流れ
・研修の狙いと、狙いを得るための仕掛け
・この研修の本質についての分析
・私がこの研修で得たもの
・この研修に感化されてしまった人について
・まとめ
なるべく公平な視点で書いたつもりですが、どうしても受講者視点での記述が多くなっているのであしからず。
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研修のルールと仕組み

・全力で2日間臨むこと
ルールは以上です。シンプルですね。
全力で臨んでいるか? を判断するのは講師陣です。
まず最初に全力でやっているならこうあるべきだ、という説明がされます。
・発言するときは頭に血がのぼるぐらい全力の声を出すべきだ
・全力であるならば人が話しているときは目を離さずに聞くべきだ
・挨拶のお辞儀の角度は90度になるべきだ・・・etc
その後の研修はルール違反した人がいないか常に講師から監視された状態が続きます。
もしルール違反をしてしまうと、個人にペナルティが発生する場合と、あらかじめ分けられた同じチームの同期たちに連帯責任が及ぶ場合があります。
個人の場合は受講者全員の前でルール違反したことの反省スピーチなどをします。
チームの場合は挨拶やお辞儀の練習がもう1セット追加などです。
ルール違反者としては以下に該当する人が標的にさらされる傾向にあります。
・くだらない研修だと思って適当に流そうとするプライドの高い人
・自己評価が低く周囲に迷惑をかけることに拒絶反応を抱く人
前者は各個人の頑固さや要領の良さもかかわりますが、何度か指摘されて改善できると最終的に講師に気に入られて逆に標的にされるジレンマにおちいります。
後者は周りの反応を見てから行動する、いわば積極的でないと捉えられがちな人である可能性が高く、行動がワンテンポ遅れたところを刺されがちです。
そこでボロが出なければ大丈夫なのですが、一旦標的にされてしまったときが怖い。
周りに迷惑をかけたという事実認識を本人がしてしまい、どんどん精神的に追い詰められて行動に粗が出始め、ルール違反を繰り返す負のスパイラルにハマりがちですね。
このように集団で研修を受ける以上は一定数のルール違反者が出てしまう仕組みです。
そしてルール違反者が出るたびに「気を付けないと同じ目にあう・あわせちゃう」という研修生への刷り込みが行われます。
もちろん講師陣からの叱責もあるため、後半になるほど失敗できない・ミスするのが怖い、という空気が蔓延していくのです。
研修生ひとりひとりの集中力が糸となって張り巡らされている感覚。
誰かがルール違反したときの講師の怒号は沈黙を浮かび上がらせる。
質量のある沈黙が全身をまとわるたび、逃げ場のない強迫観念に支配される・・・
このようにして研修生たちの体力・精神力を意図的に削っていきます。(正確には削っているように感じる、ですが詳しいことは後述)
ミスすればするほど心身ともに疲弊する、というのがミソです。
講師目線で考えるとこの研修が成功するかどうかは、研修生がいかに疲労し憔悴するかにかかっていると思います。(こちらも後述)
基本的な研修の流れ

ざっくりいえば2つの研修パートを繰り返すだけです。
便宜的にAパート、Bパートとします。
Aパートは頭も身体もフル活用して全力を出す系です。
全力の声で挨拶をする、大勢の前でコンプレックスを暴露する、文章を暗唱して叫ぶ、ルールを覚えて集団行動する、といったもの。
常に全力で声を出し、行動しないとペナルティがあることを念頭に置きつつ、ルールを遵守するために頭も使わないといけません。
Bパートは主に座学です。
いま生きていることはどういうことなのか? 感謝を伝えたい相手とは? 後悔していることとは? といったことを家族などお世話になった人と絡めつつ全員で考えてスピーチします。
もちろん講師や研修生の話も全力で傾聴の姿勢を取らないとルール違反になるので、気が抜けません。
座学以外にはAパートでの緊張を解放させるレク的な要素もあります。
このような静と動、弛緩と緊張、つまりAパートとBパートを繰り返しを2日にかけて行うことでさらに研修生の心身に負荷をかけていきます。
なぜわざわざAパートとBパートを繰り返すのかというと、状況や空気感への慣れを避ける意図があったように感じます。
人間の脳の仕組み的に、何かに慣れ始めるときの体力って相当いると思うんですよね。
勉強やダイエットが習慣化しずらいのを考えると想像しやすいのではないでしょうか。
それは状況や空気にもいえることで、慣れたところを見計らって戦略的にパートを入れ替えることで、静と動に慣れるための体力を余計に消耗させる魂胆だと分析しています。
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仕掛け:暗唱テストで研修生の疲労度の仕上げを行う

1日目の研修中にある宿題が出されます。それは2日目に2つの暗唱テストするというものです。
1日目とその晩を使って文章を暗記し、暗記した文章を制限時間内で言い切り、ルール違反がないと講師が判断すれば合格になります。
これを個人単位でのテスト、チーム単位でのテストを両方行います。
もちろん暗唱する内容は別です。
暗唱テストを始める前に、講師からテストの意義を伝えられます。
「ここで合格できなかった人は一生その事実を変えることができません。テスト回数は少ないですが合格できるように頑張ってください。」
ここで特に頑張ってしまう人が以下の人たち。
・要領がよくプライドが高い人
・まじめで素直な人
共通点は研修を省エネで乗り越えられる点です。
前者は講師の目につかない立ち回りができてしまいます。
一方でくだらないとわかりつつも、不合格は嫌なので合格を目指してしまいます。
後者は講師の言うとおりにやれてしまうので、講師から怒鳴られもせず意外と消耗は激しくありません。
とりあえず暗唱もベストを尽くしてテストに臨みます。
上記の人は余裕を残して1日目を終えられます。
ですが日中に余裕のある人ほど寝る時間を削って暗唱の練習ができてしまい、結果的に心身の疲労を2日目に残すことになります。
研修中に指摘が多かった人は力尽きて暗唱練習もできずに眠るだけなので、疲労の抱え具合としては両者ともにトントンでしょう。
またチームメンバーが関わるなら迷惑をかけないためにやる、と考える人もほとんど。
なのでほぼ全員が体力の尽きるまで暗記に時間を費やす仕組みになっています。
2日目の朝はテストに向けて早起きして練習するチームも現れますが、睡眠時間を削っているので講師の術中ですね。
いよいよ2日目はチームテストからの個人テストが始まります。
チームテストはこれまでの雰囲気と打って変わって、講師陣が積極的に盛り上げて和気あいあいと進行するのです。
研修生の緊張に肩透かしを食らわせられるのも、意外と体力を使います。
しかもチームテストの合格判定基準はガバガバ。
必ず全チームが合格するようになっていて、「個人テストは捨てるわ」という人の足元をわざとすくいます。
よっぽどなクズでない限りは個人テストよりもチームテストを優先する人が多いので、省エネで対策しようとした人を焦らせる効果があると思います。
笑いあり、のチームテストを終えた後はガチの個人テストです。
準備度合いで合格・不合格がはっきり分かれます。
和やかだったぶんだけ余力があるので、研修生は全集中力を個人テストに注ぐことができます。
むしろ注がせる意図があったと思います。
さらに個人テストではテストの出来具合で、もっとも手を抜いてきた研修生を見抜ける仕組みになっています。
・テストに合格できた人は睡眠を削って疲労を回復できなかった人
・合格できずともいいところまで進めた人は1日目で限界を迎えた人
・合格できずにしどろもどろになる人はここまで体力をあまり使っていない人
もちろん3番目の体力がありあまっている研修生を個人テストでは標的にして疲弊させます。
その研修生に周囲との出来の差を突き付けることで居心地の悪さを誘い、心身を消耗させるんですね。
よって個人テストが終わったときには、全員が全員違う理由で限界まで疲れた状態になっています。
ここまでが研修の前座です。
狙い:自分の本当の気持ちを研修生自身に気付かせる

ここまでの研修は余計なことを考えさせない意図があると考えられます。
研修生に何も考えさせないことの講師側のメリットは、目の前の研修に集中させ、講師の言葉を受け入れやすくする点です。
チームテストでの目いっぱいの弛緩(Bパート)、個人テストでの最大限の緊張(Aパート)
これらの時間で無理やりにでも最大限の集中力を発揮させます。
楽をしようとする人は適宜シバくことで、個人テストを終えた段階での全員の疲労を最高にしつつ、疲労度の足並みもそろえてやります。
そして全員の疲労をピークにする最大の目的は、考える体力をなくすことだと思っています。
研修生の理性が働かなくなったところで最後に行われることは、「研修で気付いたこと・成長したことを全員の前でスピーチすること」です。
スピーチをするうえでのルールが1つ追加させられます。
それは言葉を詰まらせないこと。
理由は「選んで出てくる言葉じゃなくって、君たちの本心を聞きたいから」だそうです。
ここまでの研修で研修生はルールに嫌というほど過敏になっています。
そういう身体に研修生をさせるための時間でもあったように思いますね。
もちろんスピーチ中もこれまでのルールは健在です。
・常に全力で声を出し続けること
・講師の目を1ミリたりとも離さないこと
・発表者のスピーチを真剣に聞くこと
なのでスピーチ中はルールを全力で遵守することにだけしか頭を使えません。
もう疲れすぎてマルチタスクなんてできない状態。
そんな極限状態で研修生の口から出てくる言葉は理性を介さない、まったく言葉を取り繕わない研修生の純粋な言葉になるんですね。
口から出てくる話のテーマの大半は『お世話になった人たちへの感謝や後悔』。
全力を出し続けないといけないので、口に出る言葉は自然と、ここ数日で印象に残った出来事の話になります。
ここでBパートの座学が効いてきているのがわかりますよね。
嫌というほどお世話になった人たちのことを考えさせられたので、研修生から出てくる言葉の大半が家族や恩師、友人に関わるものとなるのです。
自分を取り繕えないからこそ、誰にもいえなかった心の闇を吐く人もいました。
ここでは今まで目をそむけてきたことですらも対峙しなくては言葉は出てきません。
言葉が続かないとルール違反となってしまうから。
それぞれのこみ上げる想いが嗚咽交じりの叫びとなります。
見ていられないほどボロボロになりながらもスピーチを止められない研修生。
人の闇に触れるからこそ、自分の闇も打ち明けられる雰囲気。
スピーチする人もスピーチを聞く人もみんなもれなく泣いてしまうほど、気持ちにも余裕がないのです。
だからこそスピーチをしている自分自身にとっても意外な言葉が出てきてしまい、ほかならぬ自分にその言葉が刺さってしまうのです。
借り物ではない、自分で気付いた本当の気持ち。
コンプレックスや無意識に働かせていた自制心を取っ払った、本当のやりたいこと。
自分から出た言葉だから、素直に受け取れて心からその言葉にしたがった行動ができる。
いろんなしがらみから吹っ切れさせて、両親や家族、恩師、友人との関係をよく見直させる。
そして『恩人への感謝』を社会人としての行動指針にすりかえさせる。
だからこそ責任感をもって仕事に取り組めるようになる。
学生生活ではほとんどのことが自己責任の範疇で済みました。
そんな学生気分からの意識レベルでの脱却。
社会人として責任をもって、誰に対しても誇りをもって働くための意識改善。
それがこの研修の狙いではないかと考えています。
ゆえにここまでの疲労具合が甘く、変に理性が働く余地がある研修生がいると、研修の雰囲気が全部ぶっ壊れます。
そうなると研修生から何も引き出せず、研修への感想も『ただ叫ぶだけのパワハラ研修』で終わってしまうのです。
見ての通り研修の評価も反転してしまいます。
どおりで講師も全力で向かってくるわけですね。
スピーチが終わると最後は全員で「うぉー、社会人頑張るぜー」的なことを叫んで大団円。終了です。
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本質:誰もがなじまない環境でいかに適応するか

この研修の本質は、「いかに環境に適応するかを疑似体験すること」にあると思っています。
研修で疑似体験を済ましておくことで、仕事現場に入ったときスムーズに職場環境に慣れられる効果があるのではないでしょうか。
この研修にはいちおう攻略法があります。
・プライドを捨て去ること
・バカになること
これさえできてしまえば、めちゃくちゃしんどい研修 → かなりしんどい研修ぐらいになりますね。
プライドを捨てることは謙虚になることと一枚岩なので、職場に適応するためには重要なことです。
これはイメージがつきやすいですよね。
ではバカになることはどうでしょうか。
それはときには理性を捨てて、妄信しなければならないことがあるからだと思います。
いくら考えたって非効率で無意味な慣習であっても。
生きるためには、昇進するためにはやらざるをえないこともあります。
そのために、バカになる。考えるだけ無駄だから。一種の処世術ですね。
もちろんこの研修のような環境になじんだ経験のある人なんて、大学生活までで多分ほとんどいないはず。
だから誰にとってもこの研修の環境に適応することが難しく感じるんですね。
やってることはルールに沿って行動するだけなのに。
そこでなら誰もが平等にプライドを捨ててバカになる経験ができるのです。
ここで無理やりにひと皮むけさせれば、次にプライドを捨ててバカになるときに越えなければならない心理的な壁はグッと低くなるでしょう。
会社にとって扱いやすいやつにしてやろうという魂胆もありつつ、自身を保身する方法も無意識に学ぶことができる。
見方によっては会社側にも研修生にもwin – winな研修なんです。
得られたもの:共通の敵を作ることによる研修生同士の仲間意識の形成

ではこの研修で自分が得たものは何か、と聞かれたら『社会人としての矜持・プライド』とは答えられません。
実際にこの研修をとおして得られたものは、同期との強い絆です。
「あの研修のあの講師」という誰にとっても共通の敵が登場したおかげで、同期全員の共通点が生まれたんです。
あの辛い研修を乗り切った、という目に見えない繋がりが信頼へと昇華するにはまったく時間はかかりませんでした。
嫌いな人が同じ人同士はすぐ仲良くなれるという集団心理は本当に怖いですね。皮肉なものです。
研修後にみんなで飲んだ酒は本当においしかった。
・・・とここまでならギャグでしかないのですが、ちゃんと会社側のメリットもあります。
それは新入社員の離職率を抑えられることです。
極限的な状況を乗り切った仲なので、同期の間でも孤立する人がいませんでした。
なので些細な悩みでも共有しあえて、理想的な同期の関係ができあがるのです。
現に私は退職しちゃってますが。笑
でもまだまだ遊んだり連絡を取り合う仲であることからも、繋がりの深さを垣間見ることができるのではないでしょうか。
ほかにも同じ研修を経験した先輩社員と、同じ話題を共有できたのがありがたかったです。
「あれきつかったよね」という話題で誰とでも盛り上がれるので、すぐに職場にもなじめましたね。
なので本配属後に同期と離れ離れになってしまっても、どっかしらに同じ研修を受けた先輩はいるので安心感が強かったです。
初対面はとりあえず研修の話でもしてればいいのでとっても楽でした。
このように研修は、ある種の通過儀礼のように機能します。
『同じ経験をした者同士』という仲間意識の形成を、自然発生的に促せる効果がこの研修にはあるのではないでしょうか。
・・・むしろ共通の敵を作らせて、同期同士の仲を深めさせよう! と思って会社が研修を取り入れているのだとしたら、サイコパス感が高すぎてやばいですね。こわい。
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感化して人が変わってしまったケースも

この研修を斜に構える人は講師陣を『敵』として見ていましたが、なかには本当に感化されてしまう人もいたようです。
・・・それも結果的にはあまりよくない方向に。
直接のかかわりはなかったのですが、C君は研修を受けるまではおとなしい性格だったといいます。
ですが研修で仕事のいろはを叩きこまれ、自分の本音と向き合ったC君は性格が一変してしまいました。
おとなしい性格から、みんなを引っ張ろうとするリーダーのような性格になったそうです。
「俺は会社のために頑張るんだ」
「だから自分の努力を怠らないことはもちろん、不真面目な同期は許せない」
一種の強迫観念というか義務感に駆られるようになっていきました。
結局、C君は配属先で人間関係に悩んで退職してしまったみたいです。
C君の本気の情熱が現場では空回りしてしまったと聞いています。
C君と上司や先輩との間にあった仕事への温度差に耐えられず、潰れてしまったとのこと。
研修で教わる仕事のいろはなんてものは、理想論でしかなかったり、仕事現場でやるには現実的ではなかったりするじゃないですか。
その現実と情熱、自分の社会人としての行動指針のギャップを埋められず、気持ちの行き場がなくなってしまったのだろうと思います。
洗脳ではない、といえばこの研修は洗脳ではないのかもしれません。
ただ実際に研修内容に感化されて、結果的につらい目にあってしまった人もいます。
研修の目的自体が研修生を感化して行動させるものなので、研修の存在意義としては正しい結果といえるでしょう。
感化されたことが良いか悪いかは置いとくとしても、会社のために頑張ろうとしたC君が憂き目にあうのは、会社としても研修会社としても無責任で理不尽なように思えてなりません。
研修がハラスメントになるかといったら正直微妙

数年前の事件を受けてなのか、言葉遣いはぎりぎりパワハラとはいえません。
よくネット上で見聞きする研修内容は、「人格否定される」「コンプレックスの自白を強要される」といったパワハラ・モラハラについて。
ですが自分が研修を受けた限りでは、はっきりとした人格否定・コンプレックスの自白はありませんでした。
きっとそこは講師陣もうまく立ち回っているところで、言葉遣いは相当選んでいるように感じています。
あくまでも講師は発言を促す立場で、自白をするのは研修生自身の意思という会話の流れです。
研修を受講している身からしてみれば、状況や空気感から人格否定やコンプレックスの自白をさせられたと感じてしまうのでパワハラ・モラハラ感は否めません。
ですが状況やその場の空気が関係していたとしても、主体的に研修生から話している(ように聞こえる)ので、客観的にパワハラ・モラハラがあったことの証明は難しいのです。
とはいっても最近では研修方法も大きく変わっているという話も研修を経験した後輩Dから聞きました。
後輩Dがいうには受講者の反応を見て、ストレスを与えない方法へ舵を切ることもあるそうです。
後輩Dの年は受講人数が多かったので、日程を分けて前半グループと後半グループで研修を行いました。
ですが前半グループが深刻すぎる研修の終わり方を迎えてしまったといいます。
最後のスピーチであまりにも自己否定をする人が多く、「今年の新人は明るく研修を行ったほうがよいのでは」との結論にいたったようです。
その後の後半グループでは終始わちゃわちゃ、和気あいあいとした研修で終わったみたいです。
後半グループにいた人は楽しかったといっていて、「研修ビビッて損した~」なんて言っていました。ずるい・・・
まとめ:別にこのやり方・研修にこだわる必要はないのでは
自分はこの研修自体には意義はあると思っています。ですがやり方には否定的です。
確かに受講者のなかでも「受けて良かった!」という意見の方もいらっしゃいます。
ですが正直なところ「受けて成長できた」ぐらいに思わないと、あんな理不尽な仕打ちを受けた事実を受け入れることは難しいんじゃないでしょうか。
世の中、あの研修を受けずに生きている人がごまんといます。
なぜ自分が? と思うとやりきれないですよ。やっぱり。
この研修は社会人としての意識を芽生えさせる手っ取り早い手段ではあるのかもしれません。
でも家族のことやコンプレックスを聞き出したり、ましてやスピーチさせたりする必要はあるのでしょうか。
みんながみんな同じ家族ではないし、同じコンプレックスでもないし、それぞれに抱える悩みの大きさも千差万別です。
スピーチで家族のことを話してくださいといわれたとき、その場で泣き崩れてしまう人もいました。
それに目には見えなくっても、心の病気を抱えている人だっています。
なかには講師の大声を聞いたり、誰かが大声で叱責を受けている状況に反応してパニックを起こす人だっているかもしれません。
人生だって、想像もつかないぐらいたくさんあります。
全員に同じやり方で、というのは無理がある気がします。
それと研修の最後に行われる「研修で気付いたこと・成長したことを全員の前でスピーチする」というやり方・評価の仕方にも疑問があります。
なにやら泣きながらスピーチをした人は高評価で、泣かなかった人は研修に真剣に望んでいなかったと低評価を付けられるそう。
実際に私は低評価を付けられ、会社の研修期間の成績に影響を及ぼされたので悲しかったです。
あれだけ全力、全力とか言ってきた割には最後は涙でしか評価しないんだ、と。
さすがにスピーチする人がみんな泣き出す異様な空気感は気持ち悪ささえあります。
神妙な顔をする講師陣。
新入社員のボロボロな姿を見る会社の役員の連中。
かえって自分がスピーチするときには冷静になってしまったな、と今では思いますね。
でもさすがに同期たちのスピーチの内容には涙ぐんでしまいました。
みんな自分を責めるんですよね。
家族や恩師、友人には迷惑をかけてしまって、本当に自分は・・・という感じです。
そうやって大人になるくらいなら大人になんてならなくていい! なんて思ってしまうのです。
本当何様だ、って感じの意見ですよね。
だからこそ、人生の後輩たちにはこんな研修を経験せずに大人になってほしいなって思います。
・・・まぁ、社名もはっきり出してないのでただの偽善でしかありませんが。
でも、少しでもそんな人が減ったらいいなというのは本心です。
今後は社会情勢とともに研修内容も変わっていくのかもしれませんね。
不幸な人が1人でも減ったらいいなと思います。
そのために研修を受けた私たちのような人間は、あの経験を「成長できた」「受けて良かった」といった美談にしないべきではないでしょうか。