隣のパン屋さんから怒鳴り声が聞こえる話




 

朝起きるとふわりと香るパンの匂い

隣のパン屋さんから漂ってくる焼けた小麦の匂いが大好きだった

 

虫も殺せない雰囲気を醸し出す、物腰柔らかな奥さん

寡黙でありながら接客時にははにかんだ笑顔を見せるご主人

活発でやんちゃざかりな4歳ほどの男の子

 

味はもちろん、お店の雰囲気もすべてが好きでなんども通ったパン屋さんだ

しかしこの三階建ての家は夜になると怒鳴り声が聞こえるのだ

 

ときどき響く大きな声

 

最初に聞いたときはびっくりした。奥さんの声だったからだ

 

そよ風にも飛ばされそうな声をしているあの奥さんが…? と信じられなかった

 

けれど怒鳴り声が響く前後に男の子の声が聞こえることが何回かあった

そのため「きっと叱ってるんだろうなぁ」というなんとも微笑ましい理由だった

 

聞きなれなかった当初は怒鳴り声が気になってしょうがなかったものの、次第にそれも和やかな日常として馴染んでいった

「今日もようやっとるな」、そう思いながら男の子と奥さんを陰ながら応援していた

 

そんなある日の夜、大きなステンレス系の音が響いた

 

なにかを叩きつける音と声

 

ステンレスっぽい聞き覚えのあるなにかを叩きつける音とともに、声も大きくなっていく

 

「今日は激しいな」と思いながら何を言っているのかいろいろと聞こえてしまった

夏だったのもあって網戸だったこと、いつもより声が大きめだったこともあったからだ

 

・・・どう考えても子どもにあてた言葉ではなさそうだ

お金をはじめとした極めて大人な内容だった

 

よくよく考えてみると今までの怒鳴り声は居住スペースの2,3階ではなく1階から聞こえていた

それにステンレス系の音はきっとキッチンを叩く音だろう

そして業務時間終了から1~2時間のあいだに声は響いていた・・・

 

どうやら奥さんが使い分けていたのは鬼の顔だったようだ

 

それからというものの、たまにレジに顔を出すご主人は生気が抜けたように見え、奥さんも奥さんで溜まり溜まったものを飲み込んだプロの接客、というふうにしか見えなくなってしまった

そう思いながら今日もまた、ここのパンを噛みしめるのであった