朝起きるとふわりと香るパンの匂い。
隣のパン屋さんから漂ってくる焼けた小麦の匂いが大好きでした。
寡黙でありながら接客時にははにかんだ笑顔を見せるご主人。
虫も殺せない雰囲気を醸し出す、物腰柔らかな奥さん。
活発でやんちゃざかりな幼稚園の男の子。
なかなか拝めない仲睦まじい家族が、そこにはありました。
味はもちろん、お店の雰囲気もすべてが好きでなんども通ったパン屋さん。
しかしこの3階建ての家は、夜になると怒鳴り声が聞こえる不思議なパン屋さんなのです。
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ときどき響く大きな声
最初に聞いたときはびっくりしました。
女性の声だったからです。
そよ風に飛ばされそうな、かよわい声をしているあの奥さんが・・・? と信じられなかった。
けれど怒鳴り声が響く前後に、男の子の声が聞こえることが何回もあったのです。
「きっと叱ってるんだろうなぁ」
なんとも微笑ましい理由だろうか。
店の顔と親の顔。
使い分けて当然だし、器用に使い分けられる奥さんにとっても好感がもてました。
当初は怒鳴り声が気になってしょうがなかったものの、聞きなれるうち次第に和やかな日常として馴染んでいきました。
会社から帰っては叱る母と、負けじと悪事を働く男の子。
「今日もよくやってるな」
そう思いながら男の子と奥さんを陰ながら応援していました。
そんなある日の夜、大きなステンレス系の音が響いたのです。
なにかを叩きつける音と声
ステンレスっぽい聞き覚えのあるなにかを叩きつける音とともに、声も大きくなっていく。
「今日は激しいな」
何をいっているのかいろいろと聞こえてしまう。
夏だったのもあって網戸だったこと、いつもより声が大きめだったこともあったから。
・・・売上? お金? お客???
パンにいたずらしちゃったのかな。
いや、でも今は業務後だぞ。
よくよく考えてみると今まで怒鳴り声は居住スペースの2,3階ではなく1階から聞こえていた。
おそらくステンレス系の音はキッチンを叩く音だろう。
そして業務時間終了から1~2時間のあいだに声は響いていた・・・
どうやら奥さんが使い分けていたのは鬼の顔だったようだ。
寡黙なご主人と、虫も殺せない雰囲気の奥さん・・・
彼らは正真正銘のプロだったのだ。
今日もここのパンはうまい。